2009年8月31日月曜日

フジ・ホテル

フジ・ホテルに移った。ドンムアン到着の深夜に空港のホテルサービスで予約しておいたのだ。なにしろハイヤットは2泊しか予約してなかったのだ、高いから。シーロム通りを歩いてフジ・ホテルに辿り着き、愕然とした。名前から日系?と思い込んでいたが異様な臭いに包まれた中東系のホテルだった。ターバンを巻いた、ダブダブの灰色の服を着た男達が殺風景なロビーを歩き回っている。う~ん、と考えたが、一泊300バーツだからとチェックインした。部屋に案内され、忽ち後悔した。物凄い臭いである。ボーイに「この臭い何とかしろ!」と、あらゆるジェスチャーで説明すると、霧吹きの様な物を持ってきて、シュッシュッと部屋にまいて、もう大丈夫とばかりにニッコリした。強烈な香水の臭いが充満した部屋で「絶対、別なホテルを探す」と決心したが、今日は疲れているので、寝る事にした。
天井を数匹のヤモリ?が這い回ってる。「おまえらと同室かよ」「100バーツづつ出せよ」「むにゃむにゃ~グー」

2009年8月1日土曜日

バンコク観光

 リムジンでバンコク観光している。もっともリムジンとは古~い日産セドリックである。ワット・プラッケオのギンギラギンの度派手さに仰天した。ワット・アルンの落ち着いた派手さに唸り、ワット・トライミット、ワット・ポーと寺巡り。日本の寺との、余りの違いにボー前自失のカルチャー・ショック。ここは外国だ!と叫びだしたい衝動に駆られる。
 スピードボートを借り切って、チャオプラヤー川を通って、トンブリ地区の旧運河(と言うより川)を走る。突如として19世紀に逆戻りしたような古い家屋から、物憂げな顔がのぞいている。裸の子供たちが運河に飛び込み、女が髪を洗い、洗濯する横では食器を洗ってる。運河には時々スピード・ボートが行き交い、手漕ぎボートが行く。
 リムジンに戻って、タイ料理の店へ。運転手兼ガイドのノイはビールも注文して自分も飲んでる。オイオイ! まだホテルに帰ってないぜ! 「ノー・プロブレム」とニッコリ。ここでもカルチャー・ショック。
 午後は何処に行こうか悩んでいると、「マッサー?」「ファッション・マッサー?」と小さなパンフレットを出してきた。裸同然の女の子が写ってる。オイオイ!まだ、午後1時だぜ。ノイは「ジャスト・ルッキング」とにっこり。ウ~ムこれ以上は話せない。

2009年7月24日金曜日

初めてのバンコク

ホテルにテレックス(なつかしい)で予約して、小さなバッグを抱えて成田へ。ビール飲みながら、外国への気分をかみ締める、お気楽な独り旅だった。ドンムアン到着は深夜だった。イミグレ、カスタムを通過して出た先は異様な世界だった。色黒で小柄な人たちが、不思議な匂いを発している。何か分けのわからない言葉を喚きながら近寄って来る。私は掻き分けながら両替を探し、タクシーを捜した。深夜3時にバスは無かった。それ以前にホテルの場所がわからない。ちょっぴり心細くなってくる。「あらあ~」と日本語が聞こえた。ノースウエスト機で隣だったおばさんとばったり。「方向同じだから乗ってく?」のお誘いに、おばさんのガイドの車に便乗。深夜のセントラル・ハイヤットに到着した。おばさん達はインドラ・リージェントへ。アメリカンな何もかも大きなホテルに寛ぎ、疲れにすぐ寝た。

2009年7月23日木曜日

勢い

始めは沖縄に行くつもりだった。急に7日間の休みが取れたのだ。航空券を手配している内に、「8万円なら、東南アジアと同じじゃん」と急に東南アジアに変更して「明後日から」と旅行会社に電話した。無理だった。来週からなら、と断られた。むらむらと天邪鬼が出てきた。「行ったろうじゃん」と次々に政府観光局に電話した。フィリピン駄目、マレーシア駄目、シンガポール駄目、タイ「行けますよ」。それでタイに行く事になった。1988年バブル絶頂の夏であった。

2009年7月20日月曜日

またもアジアへ

東南アジア、なかんずくタイは特別な場所である。同じ地球上とは思えない程、ゆったりと時間が流れ、物憂い時間が過ぎてゆく。何時までに是を終わらせ、次に此の問題を、などと力んでいた自分が、アホに見えてくる。「マイペンライ」とタイの人は言う。「しょうがない」と日タイ辞典に出ているが、かなりちがう。タイは長老派仏教の国である。仏像は全て釈迦で、全ては2600年前に釈迦が決めた事である。麻生が首相になったのも、21日に解散に踏み切るのも、2600年前にお釈迦様の決めた事なのである。だから、「マイペンライ」なのである。この世の事は「マイペンライ」で「サバーイ」=「気持ちよい」ことを求めるのが人生なのだ。そんな空気にドップリ浸かって、ふらふら歩くのがアジアのタイのたびなのだ。